山本晴幸・襟掛本尊 摩利支天録記

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当寺の本堂の厨子の中に安置されている像こそが三つの顔、六つの手を持つ摩利支天です。今川家の家臣『山本藤七郎光幸』の三男「山本勘助」が25歳の時武者修業先の高野山禅定の瀧にて十七日の断食修行に挑み十七日目の夜に勘助の前に現れた高僧が左手に捧げ「この像は香木(ジンコウやビャクダン)を彫刻しできた摩利支天の霊像である。汝の修行の精神に感じこれを授与する。この像を守本尊として守護しなさい。私は当山(高野山)を開いた『空海』である。」という夢をみた。勘助が夢から覚め枕元を見ると一体の小さな像が置いてあり驚きつつも敬いつつ賜いた像である。
この像が当寺に安置されている由縁は、山本藤七郎光幸の三男山本源助が五歳の1月15日、三河の国 牛久保城主牧野家家臣大林勘助を名乗り25歳にして諸国を修行で巡り、35歳の12月28日に再び牛久保に帰ってきたのだが、ココで小林家と離縁して翌年36歳にて「山本勘助」を名乗る。天文二〇年(1551年)に武田晴信(信玄)と主従の約を結ぶ。諸処の合戦で数々の手柄を上げたのち仏門にはいり、道鬼と称するになった。
大林家の養子であった時期、長谷堂(当寺)に安置された観音像が西国第八番霊場、初瀬寺(現在の豊山長谷寺)の観世音と同木同作であることを知り、勘助は深く信奉し、永禄三年勘助63歳の折、長谷堂念宗法院(長谷寺開山の祖)に摩利支天像を預けていった。

この摩利支天像を一度拝み信ずる者は予期せぬ災難や非業の死、水難、火難、盗難を免れる。また武芸を志す者には深く祈願すれば剣術の奥義を究め世に名声を残すこと疑いなし。
安政四丁巳年 首度改之 當山十七主 積譽

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