やっぱり実在?山本勘助

全国初、名前を明記、かなり身分高い武士、釧路で信玄の書状(市川文書の欠落部分)発見

山本勘助は武田方の軍師としては小説などで名高いが、古文書に記録が残っていないことで「架空の人物」説、あるいは「実在しても足軽ていど」という説が一部にあったが「やっぱりかなり位の高い武将だった」ことを裏付ける古文書が、北海道釧路市で見つかった。この古文書は重要文化財にも指定されている「市川文書」の欠落部分に相当するもので、霧に包まれがちな川中島合戦を解明するのに役立つ貴重な資料と注目されるもの
問題の古文書は釧路市の市川良一家より発見された。市川家の祖先は山形県米沢藩の家老、明治初年、祖父が第一回屯田兵として北海道に渡ったさい、祖先伝来だと云う桐の箱を持ち渡った、たまたま、昭和四十四年釧路市の市史編纂着手、北海道教育大学の教授等が市川家の古文書箱を調べた結果、その中から発見したという。
武田と上杉が奥信濃の上、下高井、下水内の攻防をめぐって様々な動きをしたことを裏付ける記述と共に「山本勘助」の名前が古文書の中では全国で初めて発見され、彼が当時重要な役割を果たしていたことがうかがえる内容となっていた。
問題の書状は、上杉謙信が信濃へ出兵し、武田軍と川中島で戦った弘治三年(1557年)の六月二十三日、武田晴信(信玄)が、市川さんの祖先で下水内栄村を中心に勢力を持っていた豪傑市川藤若にあてたもの。
その内容は、「景虎(上杉謙信)が野沢之湯(下高井野沢温泉村)に陣をすすめたが、守備が堅く、景虎は飯山城(上杉方)へ引き返した。このことは誠に心地よいことである。しかし今後、上杉方がいろいろ計略してくるので、これまでの出陣の命令系統を簡略にして上杉方に備える。そのことを今日、飯富丘部少輔(武田方の武将で高梨城(中野市)攻略の総大将)に伝えた。なお、このことは山本勘助が連絡にあがる」という趣旨。
こんど見つかった書状は、国の重要文化財にも指定され、信濃史料にも収められている「市川文書」のかけている部分の書状で、その中に山本勘助の名前が出てきたことから、勘助の実在は証明される。さらに同古文書に勘助の上司として名前が出てきた飯富兵部少輔は、武功雑記にでてくる山形三郎兵衛昌景の兄で、飯富が信玄に殺された後山形の家来になったことで一致する。春信は、山本勘助を重臣飯富にかわって、市河のもとへ口上(連絡)を出しており、役に立つ、要職にある武士として重用していたことがうかがえる。
(信濃史料編纂委員 金井喜久一郎氏の話)
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