軍師山本勘助と長谷寺

山本勘助は明応9年(西暦1500年)8月15日八名郡賀茂村【現在の豊橋市賀茂町】に生まれる。其の祖清和天皇のあと、新羅三郎義光の三世、山本遠江守義定より出で世々駿河国富士郡住居し山本伝次郎幸綱に至りて三河国八名郡賀茂の荘2500石を賜ふ。これが山本家の第一代ととなる。
第二代 山本帯刀、第三代を山本藤七郎光幸といい三子あり、三男を源助と云ふ。勘助即ち是なり。
勘助一五歳の正月十五日、牛久保城主牧野家の臣 大林勘左衛門貞次の養子になり大林勘助貞行となる。。資性武事を好み想念にして父母に暇を請い飄然郷里を出で山越武者修行をなし遍く剣士の道場を訪問す。二十五歳にして紀州高野山に登り摩利支天堂に一七日夜参籠し武術の上達を祈願せり、霊験あり満願の夜夢中に弘法大師の作なる摩利支天の像を受く。身長一寸三分(約4㎝)なり。勘助これを襟にかけ、身の守護となし、四国、九州、山陰、山陽を巡遊し、毛利氏、尼子氏に仕える。
三十五歳の冬。故郷牛久保に帰るが養父であった大林勘左衛門に実子が生まれた為、父子の縁をきり山本に戻す。茲に於いて東関東に歴遊する。
小田原にいたり北条氏康の武術の師、松平平七郎左衛門によりて氏康に謁す。氏康、其の容貌の醜なるを見て用いず。勘助鎌倉に至り扇谷上杉憲政のもとにあることが数ヶ月去りて上州倉ヶ野越中守が家中に止まること三ヶ月、信州岩尾の城主真田一徳齋幸隆を訪うて其の共に語るべきものとなるを知り十余日にして再会を約して去る。

天文十二年(西暦1543年)12月、実母の従弟庵原安房守忠房による。忠房は今川義元の長臣にて勘助を義元に薦む。義元其の風采の揚がらざるを見て用いず、依って忠房、武田信玄の家臣甘利備前守虎泰に託して信玄にに仕えしめんと計る。
当時、牛久保城主牧野家の臣、真木伝右衛門の一子念宗法印、大和長谷寺の住職なりしも職を辞し同木同作の観世音像を捧持して故郷牛久保に帰り一寺を建立し観世音を安置、長谷堂と称し現在の長谷寺の改竄なり。勘助日頃念宗法印の徳を慕い甲斐に赴くに先立ち念宗法印に暇を乞い襟掛けの守護本尊摩利支天の像を奉り行末を依頼し薙髪して道鬼入道と号し又道鬼斉と名乗り甲斐に出立す、時、天文十四年(西暦1545年)春。勘助四十四歳なり。
勘助人となり身短く眇目跛足なり信玄晴信、之ををみて大いに悦んで曰く「容貌具はらず奇才あらん」と知行二百貫文(一貫文はおよそ25000円)与えなを晴幸と賜る。
天分二十二年(西暦1553年)十一月、上杉・武田の両将、信州川中島に陣し所謂川中島の合戦始まる。これ最も勘助の力を振るいし所にして知略絶倫謀を善くし後生武田の兵法をいう旨晴幸を以て宗となす。
信玄の名将なることに異論なきも、信玄の動きの中に常に勘助が在りその智謀を傾けていることを考えると、勘助の全生命は信玄の肉体を借りて燃え切ったと称してもよいのではないか。
後生兵家にて、甲州流、武田流、山鹿流等勘助が遺せし兵法なりと。
川中島の合戦は天分二十二年より永禄七年に至る十二年間の長きに亘り五回の大合戦が行われたるも、特に劇的な斗いがあったのが永禄四年の第四回目の合戦にて、すなわち信玄の「きつつきの戦法、鶴翼の陣構え」謙信の「決戦強要作戦、車がかりの戦法」と後世作戦史上に残る有名な軍略に加えて、両将の一騎打、三太刀、七太刀といわれるシーンを演じた全軍力を投じた戦に、一世の豪傑抜山蓋世の勇士山本勘助晴幸入道道鬼斎も成年六十二歳を一期として川中島の草葉の露と消えたり、時、永禄四年九月十日。
茲に多年道契浅からざる牛久保長谷寺念宗法印は勘助晴幸入道の戦死を聞き、晴幸が武運の長く久しかれと朝夕祈願怠なかりし摩利支天の傍らに、先に入道の削りし髪を埋め一基の塔を立てて朝夕墓参し香華を供えて回願せり。現在、長谷寺に安置せる摩利支尊天と墓これなり。
山本勘助入道、法名、天徳院武山道鬼居士。

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